finders keepers

バイクが楽しい。写真が楽しい。釣りが楽しい。

アタマのなかにSiriがいる

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ぼくらのカラダは実によくできた仕組みがあって、生きていくうえでの大半のことを制御する必要がない。そろそろ爪を伸ばしておこうとか、運動に備えて呼吸を増やそうとか、食べたラーメンから無駄なく炭水化物を得よう、などと指示する必要はない。総務や各部署のメンバーがせっせと働いてくれていて、社長に稟議書をあげてくるのはそれが必要なときだけだ。食欲とか、眠気とか、尿意とか、届けられる稟議書は巧妙なので、社長はそれに判を押すだけでよい。

 

アタマのなかには猛烈に出来の良いSiriのようなものがいて、入ってくる情報を巧みに整理し、経験やら記憶やら遺伝子のデータベースから関連情報を探し出してくれる。視界に入った友人を判別し、街の喧騒のなかから自分の名前を抽出し、紅茶に浸したマドレーヌから遠い記憶を呼び起こす。 

問題はこのSiriが、少しばかり勤勉すぎることにある。

 

目下の仕事がなくなると、Siriは過去のデータベースから資料を探し出して「あのときのことを振り返っておきませんか?」などと提案してきたりする。よい記憶の反芻ならばともかく、大抵はネガティブな事案の検証だ。アタマの中のスクリーンにムービー再生をはじめ「あのとき何と言えばよかったか」なんていうシミュレーションをやりだす。 まだ起こってもいない未来の想定プランをいくつも作り出して、結論のでない不毛な会議をはじめる。これをぼくらは不安だとか心配と呼ぶ。Siriの提案を、自分の主体と混同する。

 

必要なときだけSiriを起動し、普段はサジェスト機能をオフにしたいのだけれど、その設定画面はどこにあるのだろうか。

哲学や宗教というものは実のところ、そんな環境設定の方法を模索しているものなのかもしれない。