finders keepers

バイクが楽しい。写真が楽しい。釣りが楽しい。

丁酉・元旦

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人にはそれぞれ持って生まれた身体があって、それをどう使うかは自分次第。このシンプルな事実を実感できたことが、ランニングをはじめて最もうれしいことだったかもしれない。こどもの頃に「じぶんは運動が好きじゃない」と思っていたのは、たぶん他人と比べていたからだ。肉体というものは実に素直に変化してくれるので、自己の成長だけにフォーカスするとこんなにおもしろいものはない。自分を追い抜いていく人をうらやむ必要もなく、人を追い抜いて誇らしく思う必要もない。ランナーはそれぞれ、自分と向き合っているだけだ。

 

走りはじめて2ヶ月半。10kmの距離も(遅ければ)走れるようになったし、体重は5kg落ちた。野菜を食べる量も増えた。もう少し早くにこのようなライフスタイルの変化を起こしていたら・・・と思わなくもないけれど、色々な物事に気がつくにもそれぞれの人生のペースがあるわけだ。これはこれでいいじゃないか。

 

新年、あけましておめでとうございます。

運動不足がランニングをはじめたという極私的な話

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慢性的な肩・背中の凝りが実生活にも影響を及ぼすようになって、とうとうランニングをはじめた。「運動しないと」という消極的な意志ではなく「身体動かしてよ」という内なる声に突き動かされた感じで、個人的には「革命的な」出来事といえる。運動の方法をランニングに決めたのは、友人もまた今年から走りはじめていたからだ。居酒屋でビールを飲みながら「まずウェアを揃えてから」という自分に「こりゃだめだ」というのが皆の反応であったが、翌日ほんとうにウェア一式を揃えた。奮発して機能性インナーも。道具を手にすれば、さっそく試してみたくなるものである。

20年分くらいの運動不足に慣れている身体は、びっくりするほど動かない。からだが重く、スピードは出ない。1ブロック進んだだけで息があがる。それでも人間の身体というのは大したもので、筋肉痛の1日を経た次のランでは明らかに身体が楽になった。1〜2日おきに3〜5kmくらいを走って、じっくりと身体に刺激を加えると、身体はわかりやすく応えてくれる。手応えがあるので楽しい。そもそも、走った後は気持ちがいい。

何かに関心を持ち出すと、いろいろと本に手を出すのは自分の癖だ。雑誌やガイド本はもちろんだけれど、自分に影響を与えるのは小説やエッセイであったりする。物語は頭ではなく心を動かしてくれる。

「風が強く吹いている」三浦しおん
「走ることについて語るときに僕の語ること」村上春樹
「BORN TO RUN」クリストファー・マクドゥーガル(近藤隆文 訳)

これとは別に、ランとは関係のない興味関心が不思議なほどにリンクしていくというのが面白い。もちろん単純に「自分が欲するものを選び取っている」だけかもしれないし、都合よく読んでいるだけかもしれないけれど。最近読んできたその他の本は、例えば以下のようなものだ。

「ブッダのことば―スッタニパータ」(中村元 訳)
「シッダールタ」ヘルマン・ヘッセ(手塚富雄 訳)
「自分を変える気づきの瞑想法」アレボムッレ・スマナサーラ
「サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福」ユヴァル・ノヴァ・ハラリ
「あなたの知らない脳」デイヴィッド・イーグルマン
「易経読本―入門と実践」河村真光
「養生訓」貝原 益軒
「一汁一菜でよいという提案」土井善晴
「GO WILD 野生の体を取り戻せ!」ジョン・J・レイティ/リチャード・マニング

書店に行ってもマインドフルネスは昨今のキーワードであるようだが、自分は仏教の書籍から入った。仏教に興味を抱いたのは神社仏閣巡りをはじめたからだし、神社仏閣巡りはバイクツーリングの流れからスタートしている。「易経」などは漢方薬メーカーの方と知り合って東洋医学・東洋哲学に関心を持ったからで、自然を求める生き方はキャンプや釣りに勤しんできた流れかもしれない。別々の出来事がひとつの方向に向かうさまは、伏線が上手に回収されてゆく映画のようで愉快だ。結果として、自分でこしらえたワラーチを履き、身体の力を信じて走りだすことになった。

東京に住むランナーの常として今は皇居の周りを走っているが、やがてトレイルランの世界に踏み出すだろう。絶対に楽しくて、気持ちがいいはずだ。目下の課題は食生活と睡眠だが、身体から発せられる心地よさに耳を傾けていれば、おのずと変化していくと勝手に期待している。巷にあふれる情報や理論には正反対の主張があるから、何を採用するにしても少しずつだ。ハンドルを急に操作すれば事故につながる。

とはいえずいぶん回り道をしたというだけで、単に人間としてあたりまえの生活に向かっているということかもしれない。思えば西洋医学であろうと東洋医学であろうと、医者に言われてきたことはいつも同じだったではないか。

「食事と運動を改善しましょうね」と。

California 1400 にサイドケースをつけた

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カリフォルニア1400での走行距離は現在3800km。走るたびに印象に変化があり、なかなかインプレッションを語るに至らないでいるのだが、いよいよサイドケースをつけてみた。本国取り寄せということで数ヶ月待つのかなと思っていたら、1ヶ月かからず届いて想定より出費が早まる。

ボディカラーとマッチし、流麗なリアラインはお見事。しかし・・・ 

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でかい。アメリカ人が作ったようなサイズ感に驚く。そりゃあアメリカンというカテゴリではあるのだけれど、イタリアって街並み狭い国ではなかったっけ。バイク屋に引き取りに行って、若干後悔したのはここだけの話。

さっそくツーリングに出かけてみると、やはりこれだけの容量があるとすこぶる便利である。荷物はぜんぶケースに詰め込んでしまえるから運転中負担がなく、鍵がかかるから旅先でも身軽に歩き回ることができる。雨具や工具のスペースを工面する必要がないし、気兼ねなくお土産を買える。

そしてまた、これだけ重いものをつけても走りにはちっとも影響がない。むしろリアの重量によって、バランスが良くなった気さえする。ライディングを楽しむバイクに余計なものはつけたくないが、そもそも身体ひとつで乗ろうとするならこんなに大きなエンジンは要らないのである。重い車体とパワフルなエンジンによって生まれる世界は、まったく別物というわけだ。

ハーレー界隈(とくにウルトラとかの)のツーリングの楽しみ方が、ようやく腑に落ちた気がする。車庫から出してしまえば、これはこれですばらしい世界だ。

身の丈を知る

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身の丈を知る、ということは大切だ。身体に合わぬ服は不格好でしかなく、たとえ安物でも身体に合った服を着ているほうが美しい。バイクにしても自分の背丈や手脚の長さから考えてちょうどいい寸法があるし、運転技術や自己統制の程度から見たちょうどよさがある。V7は実に、自分の身の丈・身の程に合っている。

「その気にさせる」バイクというのは多々あって、そのようなバイクに跨がればついつい速度が上がってしまう。あるいは低速では全然楽しめないバイクもあるし、急かされるようなバイクもある。元気なときはいいが、疲れてきたときにはつらい。V7はその点が(自分にとって)ちょうど良くて、自分が楽しみたいテンポでライディングを楽しませてくれる。セローは250ccということもあってそれ以上にフレンドリー。刺激は少ないかもしれないが、何かを押し付けられることはない。

背伸びをするから見える世界もあるのだが、身の丈を知ることとはまた別の話のように思う。

バイクの楽しさとフロー理論

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晴れていればどこかに走り出そうというライダーの感覚は、バイクに乗ったことのない人には意味がわからないかもしれない。バイクの運転はなぜこんなにも楽しいのか。他の乗り物とは違うのか。

チクセントミハイのフロー理論の本を読んだとき、その理由のひとつが紐解けた気がした。ざっくりいえば、フロー(=没頭している状態)を体験するためには以下の3つの条件があるという。

1) 目的がはっきりしていること
2) 自己の技術に対して適度な難易度であること
3) フィードバックが得られること

走るという行為を始めれば、発進、停車、カーブという各段階でひっきりなしに操作の目的が生じ、結果がダイレクトにフィードバックされる。バイク自身の挙動や加速におけるG、遠心力など、そのフィードバック量は豊富であるから、運転者はどんどん満足感を得てフローへと向かっていく。車の運転で同じようなフィードバックを得るには相当のスポーツモデルである必要があるだろうし、速度域も上がるし、走る場所も限定されるはずだ。バイクなら30km/hであってもこれが得られる。

運転技術が上がるにつれて、目的の設定は更にグレードアップする。たとえばカーブをどのように曲がるか。走行ラインをイメージするだけでひとつの目標ができ、進入速度をどのように調整するか、重心をどう移動させるか、ブレーキとクラッチ、アクセルの操作、そして全身の動きに至るまで、細かな技術のハードルが積み重なる。カーブの度に、あるいは1秒ごとにこれを味わっているのがバイク乗りである。

これを理解すれば、単にハイスピードで駆け抜けることだけが悦びの源泉でないことに気がつく。身体が危険を感じて発するアドレナリンばかりを快感として求めるのは、公道ライダーにはふさわしくない。そんなことをしなくてもバイクは楽しい。まっすぐ淡々と走ることにさえ、目的は設定できるのだから。