finders keepers

バイクが楽しい。写真が楽しい。釣りが楽しい。

RIDING PARTY@袖ヶ浦フォレスト・レースウェイ

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RIDERS CLUB主催のサーキット走行イベント「ライディングパーティ」に2回目の参加。「サーキットデビューを応援」「速いがエライじゃない」というコンセプトが実にうれしいイベントだ。

 

サーキットデビュー組から速い人まで4つのグループに分かれていて、15分ずつの走行枠を走ることができる。午前中、10時・11時の2本は先導車に導かれての慣熟走行、12時から4本はフリー走行。自分なりのペースでサーキット走行を楽しみながら、参加者の多様なバイクを眺めたり、出展されているブースに顔を出したり、試乗車に乗ってみたり、ライダーズクラブの方々とお話できたりする。

 

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運転していることがひたすら楽しいのがバイクという乗り物であって、それを存分に味わおうとすればサーキットに行くしかない。(オトナなら)公道では実践できないレベルでバイクを倒し、カーブを曲がり、スロットルを開いていける。狂気のようなスピードを出すためではなく、安全に、好きなだけライディングを楽しむ。それがサーキットという場所だ。

 

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というわけで走る。ニューロンの発火とシナプスの結合を繰り返して、ぼくらの身体は勝手に仕事を覚えてくれる。先導車の後ろで、きれいなライン取りをトレースしていくだけで、たぶん少しずつ上手に走れるようになる。

・・・といいつつ、フリー走行の時間帯になると頑張ってしまうのがヒトというもの。前回に比べてラップタイム4秒ほど成長がみられた。速いがエライじゃないとはいえ「うまくできたか」の客観的な指標として、ラップタイマーがあると楽しいと思う。

 

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ネモケンさんのタンデムジェットコースターは強烈だったなあ。「バイクって、こうやって走らせるのか」と、新しい経験に身体が震えた。御年70歳にして、バイクの楽しさを伝え続ける偉大な方がいる。

 

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本年度のライディングパーティは終了。来年も行こう。

Brave Blossoms 30 - 63 Wallabies / 2017.11.04

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2年後のラグビーワールドカップを見据えれば実力差のあるチームでも日本に来る意義があるわけで、ラグビー・オーストラリア代表「ワラビーズ」が初来日。キャップ対象となる(=本気の)日本代表との対戦は、1975年に2試合、1987年に1試合、2007年に1試合だというから、10年に一度あるかないかという貴重なゲームである。もちろん、日本の地では史上はじめて。これを幸福と言わずなんと言おう。

 

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トップリーグの観客動員も今ひとつで、ワールドカップ大丈夫かという不安はいつも否めないけれど、会場に足を運べば色々がんばりが見える。天気もよくて人出も良好。日産スタジアムは新横浜だけに、崎陽軒のシウマイ弁当が並ぶのはうれしい。

 

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みんなしてレプリカジャージ着て、お祭り騒ぎがよいのだ。オーストラリア国家斉唱で、盛大に拍手。君が代歌って、また拍手。

 

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会場のムードは、とても良かった。オーストラリアのトライに拍手が起こり、日本代表のチャンスに湧く。対戦チームを歓迎し、敬意を払う観衆がいてこそ、強いチームがまた日本に来てくれるはずだ。後半は日本も得点を重ねてスタンドも元気。ホーン後のラストトライは、会場に足を運んでくれた4万人を次に繋げるトライだったと思う。

 

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そして試合はノーサイド。試合が終われば敵味方なく、互いを称え合う。
自分がラグビーを好きなのは、この姿があるからだ。

42.195kmの瞑想

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金沢、台風が近づく日曜日。
思っていたよりは弱い雨の中、はじめてのフルマラソンがはじまった。

街全体がランナーを応援するお祭りムードを前に、ついつい気分は高揚してしまう。いけない、足取りはゆっくりだ。準備不足はわかっているのだから、少しでも保たせなければ続かない。心拍計を見ながら、上がりすぎないようにペースを整える。

自主ランの時は脚が重くなった15km地点を、何事もなく通過できた。エネルギーチャージのせいか、ペースコントロールのせいか。ここから先は、自己史上最長ランニング記録を更新しつづける世界である。「15kmしか走ったことないのにフルマラソンだって?」その通り。走る理由など考えぬまま、21km地点を無事通過。思っていた通りハーフはなんとか走れた。雨が強くなってきた。

30kmを過ぎ、脚は思うように動かなくなった。ともかく歩いて、前にすすむ。走れなくなったことで体温が下がり、雨と風が身体を苦しめていく。歯がガタガタと震える。周りを見れば同じような状態の人たちがいて、沿道には応援してくれる人たちがいて、身体は前に進むことをやめない。38kmを過ぎてワラーチの紐が切れ、いっそ裸足になってしまうことにする。41km地点、限界を超えたはずの脚がまた走り出した。

 

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凄まじい達成感があったかというと、実はそうでもない。限界まで動いた身体、特に足腰に「おまえ、すごいなあ」という気持ちが湧いていただけで、「わたし」が何かを成し遂げたという感覚ではなかったのだ。ただ心が晴れ晴れとしていたのは、この長い行脚の果てに「わたし」がしばし姿を消したからではないかと思う。

只管打坐とはいかない自分でも取り組むことができる、否応無しの禅体験。
初マラソンの感想は、そんなところである。

僕はこの脳で嘘をつく

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昨夜、夢を見た。

「台風が近づいていますが、特に予定変更の連絡をいただいていないので、東京に向かいます。」というメールを、迷惑フォルダに入っていたために見逃していた、という夢だ。

実にロマンの欠片もないシーンではないか。夢のなかでも「まずい、連絡しなくちゃ」とか「上京予定っていつだっけ」とか、思考がはたらいていたことを覚えている。朝になってから、念のためにメールを見直してみたら、やっぱりそんなメールは存在しなかった。脳の見せた妄想というわけだ。

分離能の研究で知られるガザニガによれば、脳にはインタープリターモジュールなる解釈装置があって、与えられた情報だけで辻褄を合わせようとするらしい。たしかに先週「迷惑フォルダに分類されていたメールを見落とす」という経験があったし「台風情報を見て通勤の影響を考えて」いたりしたけれど、これらを関連付けるようなストーリーを脳が作り上げてきたと思うと面白い話だ。しかし脚本家としてはセンスがなさすぎる。「仕事熱心なのはいいが、その情報は別々のものとしてファイリングしておきたまえ」と脳の評議会は結論づけた。

 

さて、ぼくらの脳はこのように仕事をしている。目覚めているときにも。

「あのときあの人がこう言った」という記憶が捏造されたものでないことを、確かめる方法はあるのだろうか。ひっきりなしの解釈によって生まれる妄想を、止める術はあるのだろうか。あるいはただ、脳のつくる連続ドラマを楽しんでいればいいのだろうか。

読書感想文:あなたの身体は9割が細菌

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作者:アランナ・コリン
翻訳:矢野 真千子
出版社:河出書房新社

 

ヒトの身体には100兆もの微生物が住んでいて、彼らなしには生きてすらいけない。肥満やアレルギー、うつ病といった現代病は、体内微生物の生態系に原因があるかもしれない。今まさに研究のすすむ「マイクロバイオーム」の世界を紹介し、ヒトという存在に新たな視点を与えてくれる、そんな一冊だった。

面白く思えるのは、体内微生物の生態系をひっくるめたものが私たち自身であって、欲求や性格にも多分に影響しているという点である。食べたいものも、異性の好みも、私たちの身体に住む住人たちが国民投票をしているようだ。キスやセックスは使節団の交換であって、「なんか違う」と思ったら外交官がアラートをあげたということなのだろう。理由はわからないのに惹かれるのは、理性を超えた住人たちからの要求かもしれない。父親の匂いを臭いと感じる娘の反応は、実に健全な状態であると喜ぶべきだ。

そしてまたこの住人たちは移動ができる。母から子へ、友から友へ、日々の接触機会を通じて大陸を渡り、移り住んでいく。日本人の一団が南米に移り住んだように、別の集団が定住しはじめれば国家の有り様も少しだけ変化するだろう。実際に、他人の細菌集団を移植するという治療法が効果をあげている例も本書に示されている。体内微生物がどれだけヒト本体に影響するかはわからないものの、長年連れ添った夫婦がどこか似てくるのも根拠のあることかもしれない。類が友を呼ぶのか、友が類になるのか、どちらもありそうな話だ。

「わたし」とは何だろう。
遺伝子や記憶、経験や過去ばかりでなく、体内に共生する住人たちにも目を向けてみたい。