finders keepers

バイクが楽しい。写真が楽しい。釣りが楽しい。

楽器に乗って走っている。

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音は振動だ。ふつう空気や水、肉や骨を媒介として鼓膜に伝わり(その先の複雑な伝達や電気信号への変換を経て)認識された振動を音と呼ぶ。当然ながら振動は耳だけで味わうものではない。コンサートホールやライブ会場に足を運べば、その振動は肌で感じることができるし、床からズンズンと伝わる振動は否応なく心を掻き立ててくれる。

バイクというのは振動の塊であるから、ライディングが与えてくれるのは音楽を聴くこと、あるいは演奏することと似た快楽なのかもしれない。走るという行為の必然としてアクセルの開閉があり、エンジンの回転数によって絶えず振動の変化があって、さながら音階のようなものが生まれる。楽譜はないからインプロヴィゼーション。表現力に限界はあれど、加速・遠心力・重力とのハーモニーは、コンサート会場でも得られまい。

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マフラーはまさに管楽器だが、そこに息を吹き込むのはエンジンだ。エンジンはそもそも打楽器的に振動を伝え、基調音を奏でるので、ライディングを通じた官能に大きく影響する。ただの動力ではなく、ライダーはそこにテイストの違いを発見してしまう。使い込むうちにフィーリングが変わってくるのも面白いし、「エキパイは鉄のほうがいい」とかいう嗜好も生まれたりする。

 

寒空の下、80km/hぐらいで高速をクルージングしながら、そんなことを考えていた。カリフォルニア1400のエンジンは、この大きさだけあって実に豊かな振動を伝えてくれる。回転数を上げてそれなりにキビキビ走れるのが本領なのだけれど、そういう走り方をしたいのなら別のエンジン・ジオメトリが相応しいのではないか。コントラバスを使ってヴァイオリンの旋律を奏でるよりは、少し鷹揚に走ってこの振動を堪能していたい。

それならハーレーでいいんじゃないかって?
うん、あれもいい。

RIDING PARTY@袖ヶ浦フォレスト・レースウェイ

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RIDERS CLUB主催のサーキット走行イベント「ライディングパーティ」に2回目の参加。「サーキットデビューを応援」「速いがエライじゃない」というコンセプトが実にうれしいイベントだ。

 

サーキットデビュー組から速い人まで4つのグループに分かれていて、15分ずつの走行枠を走ることができる。午前中、10時・11時の2本は先導車に導かれての慣熟走行、12時から4本はフリー走行。自分なりのペースでサーキット走行を楽しみながら、参加者の多様なバイクを眺めたり、出展されているブースに顔を出したり、試乗車に乗ってみたり、ライダーズクラブの方々とお話できたりする。

 

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運転していることがひたすら楽しいのがバイクという乗り物であって、それを存分に味わおうとすればサーキットに行くしかない。(オトナなら)公道では実践できないレベルでバイクを倒し、カーブを曲がり、スロットルを開いていける。狂気のようなスピードを出すためではなく、安全に、好きなだけライディングを楽しむ。それがサーキットという場所だ。

 

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というわけで走る。ニューロンの発火とシナプスの結合を繰り返して、ぼくらの身体は勝手に仕事を覚えてくれる。先導車の後ろで、きれいなライン取りをトレースしていくだけで、たぶん少しずつ上手に走れるようになる。

・・・といいつつ、フリー走行の時間帯になると頑張ってしまうのがヒトというもの。前回に比べてラップタイム4秒ほど成長がみられた。速いがエライじゃないとはいえ「うまくできたか」の客観的な指標として、ラップタイマーがあると楽しいと思う。

 

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ネモケンさんのタンデムジェットコースターは強烈だったなあ。「バイクって、こうやって走らせるのか」と、新しい経験に身体が震えた。御年70歳にして、バイクの楽しさを伝え続ける偉大な方がいる。

 

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本年度のライディングパーティは終了。来年も行こう。

Brave Blossoms 30 - 63 Wallabies / 2017.11.04

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2年後のラグビーワールドカップを見据えれば実力差のあるチームでも日本に来る意義があるわけで、ラグビー・オーストラリア代表「ワラビーズ」が初来日。キャップ対象となる(=本気の)日本代表との対戦は、1975年に2試合、1987年に1試合、2007年に1試合だというから、10年に一度あるかないかという貴重なゲームである。もちろん、日本の地では史上はじめて。これを幸福と言わずなんと言おう。

 

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トップリーグの観客動員も今ひとつで、ワールドカップ大丈夫かという不安はいつも否めないけれど、会場に足を運べば色々がんばりが見える。天気もよくて人出も良好。日産スタジアムは新横浜だけに、崎陽軒のシウマイ弁当が並ぶのはうれしい。

 

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みんなしてレプリカジャージ着て、お祭り騒ぎがよいのだ。オーストラリア国家斉唱で、盛大に拍手。君が代歌って、また拍手。

 

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会場のムードは、とても良かった。オーストラリアのトライに拍手が起こり、日本代表のチャンスに湧く。対戦チームを歓迎し、敬意を払う観衆がいてこそ、強いチームがまた日本に来てくれるはずだ。後半は日本も得点を重ねてスタンドも元気。ホーン後のラストトライは、会場に足を運んでくれた4万人を次に繋げるトライだったと思う。

 

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そして試合はノーサイド。試合が終われば敵味方なく、互いを称え合う。
自分がラグビーを好きなのは、この姿があるからだ。

42.195kmの瞑想

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金沢、台風が近づく日曜日。
思っていたよりは弱い雨の中、はじめてのフルマラソンがはじまった。

街全体がランナーを応援するお祭りムードを前に、ついつい気分は高揚してしまう。いけない、足取りはゆっくりだ。準備不足はわかっているのだから、少しでも保たせなければ続かない。心拍計を見ながら、上がりすぎないようにペースを整える。

自主ランの時は脚が重くなった15km地点を、何事もなく通過できた。エネルギーチャージのせいか、ペースコントロールのせいか。ここから先は、自己史上最長ランニング記録を更新しつづける世界である。「15kmしか走ったことないのにフルマラソンだって?」その通り。走る理由など考えぬまま、21km地点を無事通過。思っていた通りハーフはなんとか走れた。雨が強くなってきた。

30kmを過ぎ、脚は思うように動かなくなった。ともかく歩いて、前にすすむ。走れなくなったことで体温が下がり、雨と風が身体を苦しめていく。歯がガタガタと震える。周りを見れば同じような状態の人たちがいて、沿道には応援してくれる人たちがいて、身体は前に進むことをやめない。38kmを過ぎてワラーチの紐が切れ、いっそ裸足になってしまうことにする。41km地点、限界を超えたはずの脚がまた走り出した。

 

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凄まじい達成感があったかというと、実はそうでもない。限界まで動いた身体、特に足腰に「おまえ、すごいなあ」という気持ちが湧いていただけで、「わたし」が何かを成し遂げたという感覚ではなかったのだ。ただ心が晴れ晴れとしていたのは、この長い行脚の果てに「わたし」がしばし姿を消したからではないかと思う。

只管打坐とはいかない自分でも取り組むことができる、否応無しの禅体験。
初マラソンの感想は、そんなところである。

僕はこの脳で嘘をつく

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昨夜、夢を見た。

「台風が近づいていますが、特に予定変更の連絡をいただいていないので、東京に向かいます。」というメールを、迷惑フォルダに入っていたために見逃していた、という夢だ。

実にロマンの欠片もないシーンではないか。夢のなかでも「まずい、連絡しなくちゃ」とか「上京予定っていつだっけ」とか、思考がはたらいていたことを覚えている。朝になってから、念のためにメールを見直してみたら、やっぱりそんなメールは存在しなかった。脳の見せた妄想というわけだ。

分離能の研究で知られるガザニガによれば、脳にはインタープリターモジュールなる解釈装置があって、与えられた情報だけで辻褄を合わせようとするらしい。たしかに先週「迷惑フォルダに分類されていたメールを見落とす」という経験があったし「台風情報を見て通勤の影響を考えて」いたりしたけれど、これらを関連付けるようなストーリーを脳が作り上げてきたと思うと面白い話だ。しかし脚本家としてはセンスがなさすぎる。「仕事熱心なのはいいが、その情報は別々のものとしてファイリングしておきたまえ」と脳の評議会は結論づけた。

 

さて、ぼくらの脳はこのように仕事をしている。目覚めているときにも。

「あのときあの人がこう言った」という記憶が捏造されたものでないことを、確かめる方法はあるのだろうか。ひっきりなしの解釈によって生まれる妄想を、止める術はあるのだろうか。あるいはただ、脳のつくる連続ドラマを楽しんでいればいいのだろうか。